2015.11.24
京都に数ある寺社、仏閣、史跡、名勝。
その中から本日は戦国時代末期に活躍し、
太平の世に導いた3人の英雄にゆかりのある史跡をご紹介します。
京都に織田信長公を祀った神社があることをご存知ない方も多いかもしれません。
場所は北大路通りの堀川通りと千本通りのちょうど間ぐらい。
最寄りのバス停留所はそのまま「建勲神社前」という名称で、
バス停から徒歩5分ほどにある「船岡山」の中腹に鎮座する神社です。
かの信長公を祀っている神社ですが、境内はそれほど広くはなく、
訪れる人もあまり多くはありません。
ただ、そのために静かな環境で参拝に集中できますので、
信長公の心を想像し気合を高めたい方にはぜひ行っていただきたいです。
一般的には”けんくんじんじゃ”という呼び名が親しまれています。
市バス停留所の名称も”けんくんじんじゃまえ”ですが、正式には”たけいさおじんじゃ”と呼びます。
本能寺の変の際、信長公と同日に二条城で討たれた嫡男の「織田信忠」も一緒に祀られています。
戦国の覇者「織田信長」が京都に祀られているなんてちょっと驚きですね。
(ちなみに「船岡山」は五山の送り火の鑑賞スポットとして有名で、
山頂からは大・妙法・舟・左大が良く見えます。)
「とよくにじんじゃ」または「ほうこくじんじゃ」と呼ばれます。
東山区、三十三間堂の近くにあり、京都駅からも適度に歩ける場所です。
京都駅から、三十三間堂、豊国神社、清水寺から東山を銀閣寺まで、
というのが京都観光の王道ではないでしょうか。
豊国神社の前面道路「大和大路通り」は神社の前だけ特に広くなっていますが、
そのことが神社の存在を大きく見せるのか、同時に秀吉公のスケールの大きさも感じさせてくれます。
ちなみに付近には「耳塚」という史跡も。
高さ10メートルぐらいの土が盛られた小山ですが、
なんとこれは朝鮮人の耳を埋めた塚という逸話があります。
秀吉公は「殺さない将」として若い頃は大変な人望があったらしいですが、
晩年は人が変わったように多くの人を殺したということです。
この「耳塚」にも文禄・慶長の役いわゆる朝鮮出兵の際に、
配下の武将が朝鮮で殺した敵兵の耳を送らせて武功の証とし、
その耳をこの塚に埋めたという恐ろしい伝説があります。
また、豊国神社の正面からまっすぐ伸びる通りがそのまま「正面通り」という名称で、
西に鴨川を越え、本願寺まで続く通りだった言うことです。
今は、渉成園・東本願寺・西本願寺で途切れていますが、
実はまっすぐ西大路通りを越えて天神通りまで続いています。
秀吉公に由来する京都の史跡・地名は数多く、
「方広寺」「聚楽第」「伏見桃山城」「御土居」「京の七口」「天使突抜」など枚挙にいとまがありません。
「伏見桃山」周辺の町名は戦国時代末期に屋敷を持っていた大名の名前を
そのまま使っているのが面白いです。
なお、豊国神社は秀吉公が亡くなり、子の「豊臣秀頼」が大坂夏の陣に敗れた後、
徳川家康の命で廃絶となりました。
秀吉公は江戸時代を通じても大坂では大変人気があったと聞きますが、
京都では大幅な改革や破壊を行ったため嫌われていたという話があります。
今の「松原通り」は元々「五条通り」だったものを秀吉公が強引に変更したとか、
下京区にある「天使突抜」の地名は、この地にあった「五条天神」(天神=天使)
の境内を突抜ける道路を秀吉公が作った・・など。
そういった事情を考えると、廃絶は京の住人の感情にも適っていたのかと推測してしまいます。
その後、約260年を経たのち明治天皇によって再興され今の姿があります。
徳川幕府と言えば「江戸城」。家康公と京都はあまり関係無さそうですが、
「二条城」は初代将軍の徳川家康公、15代将軍の慶喜公と密接な関係があります。
関ヶ原の合戦で歴史的な勝利を収めた内大臣徳川家康は、
西暦1603年、二条城において征夷大将軍の詔勅を賜り幕府を開きます。
それによって朝廷の「お墨付き」を得た家康公は、全国の大名を味方につけ、
1614年大坂冬の陣、1615年大坂夏の陣の両合戦で豊臣家を滅亡させます。
その後、約250年という長い太平の世を経て、最後の将軍徳川慶喜公が
大政奉還を表明したのもここ二条城、現在は国宝となっている「二の丸御殿」においてでした。
二条城は戦国史に多くその名前が出てきますが、その場所は一定ではなく、
足利氏、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と時の支配者によって位置が違っていたそうです。
また、明治維新後、徳川家の城としての役割を終えた二条城はなんと売りに出されていた時期があるそうです(!)
結局は府庁、省庁として利用されましたが、もしその時民間業者が買い取って取り壊しなどされていたら・・
と考えると恐ろしいですね。
京都の史跡にはまだまだたくさんの魅力があります。次回もご期待ください!
本日は、歴史大好き辻が担当しました。