2015.12.23
京都の観光地として、修学旅行生や外国人観光客がほぼ必ずと言っていいほど訪れる、「金閣寺」と「銀閣寺」。よく対にして言われるこの2つのお寺ですが、成立した時代背景や場所など実は様々な違いがあります。
「金閣寺」「銀閣寺」の呼称があまりにも有名で、バス停名や交差点名も「金閣寺前」「銀閣寺道」などがありますが、「鹿苑寺」「慈照寺」が正式な名称です。冒頭の写真の建物がそれぞれ「金閣」「銀閣」であり、正しくは「鹿苑寺金閣」「慈照寺銀閣」と呼ぶべきです。
「鹿苑寺」「慈照寺」ともに、京都市上京区にある臨済宗相国寺派の大本山「相国寺」の”山外塔頭”という位置づけです。
「相国寺」は観光地としては鹿苑寺、慈照寺にその位置を譲っている感はありますが、京都御苑・同志社大学の北側に広大な敷地を持っています。建物や宝物の一般公開があまりされないため、普段は観光客も少なく市内中心部にも関わらず非常に静かな境内で、地域の住民が抜け道として自転車で通り抜けていくことがあるぐらいです。
なお不動産を始めて知ったのですが、あの辺り一帯は同志社大学の敷地の一部や烏丸通の西側まで含めて相国寺所有の土地が広がっていて、借地に建物を建てている場所が多数あります。
ついでに京都御苑・同志社大学・相国寺と今出川通を挟んで烏丸~寺町の間に広大な敷地が並んでいますが、それぞれ神道、キリスト教、仏教の建物です。他国では考えられない日本人の宗教に対する寛容さが見えますね。
1994年に日本で5件目の世界遺産として「鹿苑寺」「慈照寺」ともに登録されました。
同時に登録されたのは、「上賀茂神社」「下鴨神社」「東寺」「清水寺」「延暦寺」「醍醐寺」「仁和寺」「平等院」「宇治上神社」「高山寺」「苔寺」「天龍寺」「龍安寺」「本願寺」「二条城」といずれも名だたる史跡ばかりです。
現存する銀閣はもちろん、過去に銀箔が張られていた形跡もないようです。「当初は名前のとおり銀箔を貼る予定だったが、幕府の財政事情のためにできなかった」という説や、「銀箔を貼る予定であったが、その前に義政が他界してしまった」という説、「外壁の漆が日光の加減で銀色に輝いて見えたから」という説があります。
鹿苑寺は京都市北区金閣寺町1番地、「鞍馬口通」と「西大路通」の交差点を西に約100m入ったところにあります。北山の西の端といった場所です。
慈照寺は京都市左京区銀閣寺町2番地、「今出川通」と「白川通」の交差点から東に少し行ったところにあります。こちらは多数の観光地が集まっている東山の北の端といった立地です。
鹿苑寺は室町幕府3代将軍「足利義満」が1397年に建立しています。当時は邸宅と政治中枢を兼ね、御所に匹敵するような規模だったといいます。
慈照寺は同じく室町幕府の8代将軍「足利義政」によって応仁の乱終結直後の1473年から造営が始まり、義政死亡後の1490年に相国寺の末寺として創始されています。
上述したように、金閣には金箔が張られていたのに対して、銀閣には銀箔は当初から張られていませんでした。
これは応仁の乱を経過したことによる、幕府の弱体化、経済力の低下、また3代将軍義満は豪華で派手な建築物が好んだのに対し、8代将軍義政は質素な造形を好んだという違いがあるということです。
あまり知られていないかもしれませんが、現存の金閣は昭和25年に放火により焼失したものを再建したものです。
足利義満以来、歴史を経過してきた金閣が今は残っていないことは非常に残念です。ただ再建前はほとんど金箔の剥げ落ちた簡素な風情であり、再建によって今のように金箔を張り巡らした光り輝く金閣になりました。
このように、対にして言われることが多い「金閣」と「銀閣」ですが、相国寺派の禅寺であること、足利将軍による建立であること以外は相違点が多数あります。
「銀閣」の名称は、後年江戸時代になってから「金閣」と対比するためにできた言葉という説もあり、建築当初は足利義政もそのような意識は無かったのかもしれませんね。
鹿苑寺から大文字山の裾を沿って「きぬかけの路」という全長約2.5kmの観光道路があります。
途中には同じく世界遺産である「龍安寺」、「仁和寺」があり、そのままさらに西に進むと広沢池、嵯峨大覚寺、嵯峨天龍寺を経て嵐山まで続きます。鹿苑寺から嵐山は約5kmありますが、一日コースの散策路としていかがでしょうか??
慈照寺は東山の有名寺院の北端にあるといってよいでしょう。京都駅から三十三間堂、清水寺、高台寺、八坂神社、知恩院、南禅寺など多数の著名な寺社を経て約5kmのコースです。途中寄るべき史跡が多いので一日で回るのは難しいかもしれません。
本日は辻が担当しました。ありがとうございます。