2016.01.18
私、丸毛が神戸出身であるため、どうしてもこの日のことをブログに書きたくて書きました。
1995年1月17日。当時中学生だった私は、あの大震災に見舞われました。
被災者たちは嘆き悲しみ、そして同時に途方に暮れ、何もない、何もできない時を過ごします。
学校の体育館には、死体が並べられ、目も向けられない状況です。
迫ってくる火の手をどうするすべもなく、つぶれた建物の下に人がいるにも関わらず、助けられずに絶命するまでただ待つだけの人たちもいます。
昨日までの日常は、あの瞬間で全てが変わったのです。
電気も無い、ガスも無い、水道も無い。今のように携帯もインターネットも普及しておらず、他の状況の確認も取れない。あまりにももどかしく、あまりにもふがいない自分自身を責める人たちが多くいました。
「夢であってほしい。」
そう願う人もいました。けど、現実は、人々を「絶望」と「悲しみ」に追いやります。
逃れられない現実に立ち向かう勇気が必要でした。
震災直後、数時間がたって、お昼頃になると、人々もだいぶ落ち着きを取り戻します。でも情報が無い。
回りの状況も何も分からず、友達や親族の安否も不明。先の見えないことへの不安のみが残ります。
それが、当時の「現実」です。
被災者のほとんどの人が、「神戸に地震等来ない」と思っていました。
私もそうですし、学校の授業でもそう学びました。なぜなら、過去において大地震が発生していなかったから。
建物の多くが倒壊し、阪神高速道路まで横倒しになったのも、そういった過信があったからかもしれません。
だから、被災時の避難物資等無いし、安否確認の方法もわからない。それが現実です。
被災から数日が経過すると、周りが見えるようになりました。
私は、戦争中の日本の姿を写真でしか見ることは無かったですが、現実に見たその光景は、その写真と同じでした。
焼け野原。倒壊した建物。波を打つ線路。
でも、ただ単に子供だった私は、大人たちの強い気持ちを目の当たりしました。
今、阪神淡路大震災から21年目を迎え、神戸は震災の面影も無いほどの復興を成し遂げています。
いいえ、震災直後から、ものすごいスピードで復興していった記憶があります。
大人たちは、現実を理解した上で、立ち止りませんでした。
家族の住まいを手配し、事務所のなくなった仕事のために、朝から晩まで働き、神戸復興に尽力したお父さん。
そんなお父さんと不安な子供たちを一生懸命に守りぬいたお母さん。
がれきの撤去や人命救助のために、不眠不休で動き続けてくれた自衛隊の皆さん。
物資や人材派遣のために神戸への安全なルート確保に動いてくれた行政や業者の人たち。
そして、それぞれの地域で、それぞれの思いを胸に、復興をやり遂げた被災者の皆さん。
たぶん、誰もが思ったのはこの言葉だったのだと思います。
「決してあきらめない。」
諦めた先には何もない。そんな思いがあったからこそ、成し遂げた復興なのだと思います。
あれから、かなりの月日が経ちましたね。
私は高校・大学を卒業し、神戸で就職した後、京都に住むようになり、結婚までしています。月日というのは恐ろしい位のスピードで進んでいます。
それでも、決して「あの日」を忘れることはないでしょう。
今までもこれからも。
私は、神戸で被災し、その時にいろいろなものを目の当たりにしました。
無償で食べ物や飲料を配るコンビニやスーパー。もちろん、連絡手段等何も無いので、店長の独自の判断でも有ったのでしょう。でも、そういった行為は、今でも活かされています。
全国的にも、「地震」というものがどれほどの恐怖で、どれだけ社会にダメージを与えるかも経験できたと思います。だからこそ、今の災害対策に活かされているのだと思います。
とはいえ、ニュースで「その工事は本当に必要か」等と出てしまうと、大震災の記憶は薄れているのではないかと感じます。
神戸では地震による津波の被害がなかったのですが、東日本大震災の時に、もっと津波に対する意識が高ければ、もっとたくさんの命を救えたのではないのか、と。
原発の問題も、もっと災害に対して意識していれば、対処できたのではないか、と。
未曾有の災害と言ってしまえばそれまでですが、毎回未曾有の災害になっては困ります。
もっともっと、災害による想定被害について吟味し、未来へ活かせるようにすべきだと思います。
京都も震災が無いとは限りません。常に意識をすることが重要だと思います。
「いざという時に、前を向けるか。そして、どんな時もあきらめずに進めるか」
これが阪神淡路大震災を経験して感じたことです。
私たちの仕事も、大なり小なり未来へと繋がる仕事です。
この言葉を胸に、今年も頑張っていきたいと思います。
丸毛 崇生