2016.06.10

京都の歴史に触れる。今も賑わう「花街」の由緒

京都

こんばんは。辻です。

九州・四国・中国・近畿・東海・関東甲信で梅雨入りが発表されました。

本日6月10日(金)は最高気温33度と真夏並みの暑さでしたが、

これからは雨がちなお天気が続きそうですね。

さて、京都検定を勉強中、ということで本日は京都の華やかな文化・芸術である、

「花街」についてのお話です。

参考文献:「増補版 京都・観光文化検定試験 公式テキストブック 2010年4月12日 初版発行」

現在も残る「五花街」。かつては「六花街」が京文化を担っていました

京都の「花街」は・・?

と聞かれても、かなり京都通の方でないと、なかなか答えられないと思います。

現在も残る京都の「花街」は、

上七軒、祇園甲部、祇園東、先斗町、宮川町、の五ヵ所です。

いずれも今なお、お茶屋、屋形や女紅場、歌舞練場が残り、

街を歩いていると芸妓さん、舞妓さんとすれ違うこともあります。

芸妓さん、舞妓さんは普段京都に住んでいても滅多に会うことはないですが、

特に観光客の方には非常に珍しいようで。それこそ芸能人並みに注目されていて

ただ歩くだけでも大変だな・・とちょっと可哀想です。

上七軒(上京区北野天満宮東門前)

室町期の北野天満宮修造の際、用材で七軒の茶屋を建てたのが始まり。最古の茶屋。

天正十五年(1587年)豊臣秀吉の北野大茶湯の休憩所となり、

茶屋株が許された由緒から寛永年間に官許されました。

近年では石畳が整備され、町家の保存活動も積極的にされています。

祇園甲部(東山区 祇園町南側と、花見小路通~繩手通・四条通~新橋通で囲まれた区域)

寛永年間(1624~44)祇園社門前から大和大路通にいたる道すがらに水茶屋などが建ったのが発祥。

寛文年間(1661~73)四条大和大路の南側にかけ茶屋町「祇園外六町」が生まれ、

のち四条通北にも「祇園六町」が生まれ、祇園新地と呼ばれました。

祇園東(東山区 東大路通~花見小路通・四条通~新橋通で囲まれた区域)

官許の廓として開かれた祇園内六町の新地が明治十九年(1886年)京都府令で二つに区分され、

昭和二十四年(1949年)に東新地と称しました。昭和三十年に祇園東となって現在にいたります。

先斗町(中京区先斗町通)

寛文十年(1670年)、鴨川の大改修の新堤とともに生まれ、正徳二年(1712年)一帯にお茶屋が登場し、

文化十年(1813年)に公認されました。先斗町の名はポルトガル語に由来するなど諸説があります。

宮川町(大和大路通(繩手通)~川端通・五条通~四条通で囲まれた区域)

寛文六年(1666年)、祇園外六町とともに栄えました。四条河原に櫓を構えた芝居小屋が宮川町の発展を促し、

役者が多く住みました。宝暦元年(1751年)茶屋営業が許可されました。

島原(下京区西新屋敷町)

さて、京都には先に挙げた五つの花街と、かつてはもう一つの花街がありました。

島原、といって現在のJR丹波口駅の南、線路の東側一帯です。

初め二条柳町に開かれ、のち六条三筋町に移り、寛永十七年(1640年)現在地に。

天正十七年(1589年)、官許の最初の廓として賑わいました。

現在、廓は無くなりましたが、旧揚屋の角屋、旧置屋の輪違屋が残ります。

花屋町通りの正面入口に大門と柳が往時を伝えます。

なお「島原」の地名は現在は一切残っていません。

まとめ~京都の芸術・文化をささえた花街~

現在も夜の街の賑わいを見せる祇園、先斗町。

上七軒は宮川町には隠れ家的な名店が多くあります。

島原の地は京都の人にもあまり知られていませんが、

訪れてみて、歴史を想うと、非常な感慨深さがあります。

 

 

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