2017.05.12
こんにちは。大陽リアルティの歴男(れきお)こと辻です。
みなさまGWはいかがお過ごしでしたでしょうか??
私は、とある歴女(れきじょ)さんに勧められて、
前から行きたいと思っていた「関ケ原」に行って参りました!
「関ケ原」と聞いて、哀愁を感じるあなたは立派な歴男・歴女です。
安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある。
主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。(ウィキペディアより)
とにかく、日本史上、最も重要な戦いと言っても過言ではない合戦です。
西軍・東軍ともに10万もの軍勢がこの狭い関ケ原盆地に集結、
付随した戦いが東北や信州上田、九州などでも同時に起こり、
まさに日本を二分する戦国時代最後の大合戦だったわけです。
結果はご存知の通り、東軍・徳川家康の大勝利。
家康は征夷大将軍となり、徳川幕府260年の礎を築きます。
ところで敗軍の将、石田三成。
近年にわかに人気が高まっているように思えます。
滋賀県や関ケ原など由来の地では三成を前面に出したキャンペーンをしていますし、
昨年の大河ドラマ「真田丸」にて、山本耕史さん演じる三成は、
三成ファンを一気に増やしたのではないでしょうか。
実は石田三成は長年悪役としての汚名を着せられていました。
それは、東軍の勝者、徳川家康を神君として盛り立てるためのネガティブキャンペーンだったのかもしれません。
関ケ原以降、徳川の時代が長かったため、そのイメージは定着してしまい、
近年になってようやく中立的な見方がされるようになって、
石田三成の人物や功績が再評価されるようになったのだと思います。
かといって、徳川家康が悪者というわけでもなく、
仮に家康が負けていたら、三成・豊臣家には天下をまとめきれず、
戦国乱世の時代に逆戻りしていたかもしれません。
ついでに、戦国乱世があと100年続いていたら、日本の軍事力は強いままで、
江戸末期のペリー来航の際にも異国を軍事力で追い払い、
いきなり列強国として世界デビュー出来ていてかもしれませんね。
(一説では、戦国時代の日本の軍事力は世界トップクラスだったそうです。)
と、妄想は尽きませんが、本題の関ケ原ツアーのお話です。
石田三成本陣、笹尾山より眼下を見下ろす。
石田勢は先に関ケ原に到着したので、山や丘などの高地を抑え、
「鶴翼の陣」にて万全の陣形で徳川勢を迎え入れたと言われます。
笹尾山に巡らされた柵。
高さ2m少々の柵ですが、これがあるだけで攻め込むのは格段に難しくなることを実感できます。
こんな斜面で柵を築かれ、兵士を配置されたら、絶対に抜けませんよ(*_*)
麓にはなにやら変わったオブジェが・・(笑)
黒い人影を発見・・!
なんと戦国武将でした。
黒づくめの鎧に赤の兜が映える彼は、猛将・島左近。
三成に過ぎたるもの・・と言われた名将です。
島左近と記念撮影。
軽く頼んだら、思った以上に威圧的だったので何度も謝りながら撮って頂きました★
子どもたちとは仲良くチーズ!
主婦に囲まれて何か貰ってる様子。
武将たちが集まって軍議の最中。
笹尾山を下り、5分ぐらい歩いた場所に「決戦の地」の石碑が建ちます。
島左近はこの辺りで討ち死にしたのでしょうか・・
決戦の地から、南に徒歩10分ほど。
徳川家康が最後に陣を構えた場所で、戦勝の折にはこの場所で首実験を行ったそうです。
家康は開戦当初、もう少し東に離れた「桃配山」に布陣しましたが、
戦況が分かりづらいため、早々に最前線とも言えるこの地に陣取ったといいます。
家康陣から笹尾山を望む。
正面の小高い山が笹尾山。三成陣の旗も見えます。
そして、家康最初の陣地「桃配山」
決戦地からは少し離れているので、車での移動です。
桃配山の由来は、壬申の乱(672年)のとき、大海人皇子(後の天武天皇)が
兵士たちに名産の桃を配り、士気を高めて快勝した逸話があるそうです。
関ケ原では1,000年前にも日本史の重要な戦があったのですね。
山から見下ろすと、手前には国道21号。
その向こうには東海道本線が通っています。
山の裏側には、東海道新幹線が。
関ケ原が交通の要衝なのは、現在も同じです。
関ケ原は当時、東山道(中山道)と、北国街道、伊勢街道が交わる交通の要衝でした。
現在は東山道(中山道)が国道21号、北国街道・伊勢街道がほぼ国道365号として、
同じように役割を果たしています。
関ケ原。
一日では味わいきれない濃密な地でした。
今度は、レンタサイクルをして、小早川秀秋陣や宇喜田秀家陣、
大谷刑部陣や大谷刑部の墓などを散策しつつ、伊勢街道を走破して島津の退き口を体感したいと思います。
そして、そのままのノリで石田三成の居城、佐和山城へ参りました。
次回へ続く。