2017.05.26
こんにちは!大陽リアルティの辻です。
GWから3週間経ちましたが、どうしても佐和山城のお話をしたいので、させて下さい。
⇒関ケ原編
とにかく、佐和山城はいいです。
京都・滋賀で名所・史跡を10件回るならば、ぜひこの佐和山城を訪ねて頂きたい。
金閣寺、清水寺、三十三間堂、二条城、東福寺、嵯峨嵐山、北野天満宮、哲学の道、伏見稲荷大社、佐和山城、など。
また、GWの5月5日早朝4時ごろに京都を出発し、7時ごろ関ケ原到着、仮眠の後関ケ原散策、
12時ごろ佐和山城到着、17時ごろ帰宅という日帰り弾丸ツアーだったのですが、これもまたお勧めしたい。
城跡、古戦場は基本的に人が居てはダメです。浸れません。
必ず一人で、誰もいない時間に行くことをお勧めします。
尚、このプランを活用すれば、毎週仕事終わりの土曜日深夜に出発、途中又は目的地で仮眠、
早朝から目的地を散策、午前中には目的地を離れてしまい、何か日常の用事があればそれをこなし、
しかも夜は疲れて早く寝れ、月曜日は早起き、という理想的な休日が過ごせるのです。
「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近に 佐和山の城」
と謳われるほど優れた城だったと言われる佐和山城。
「島の左近」は言わずもがな、三成配下屈指の猛将。
三成が自らの知行の半分を差し出して召し抱えたと伝わります。
その猛将と比肩する城とはいったいどういったものだったのでしょうか・・?!
佐和山城(さわやまじょう)は、中世中期から近世初期にかけて、近江国坂田郡(現・滋賀県彦根市)の佐和山に存在した日本の城(山城)である。現・佐和山城址。
坂田郡および直近の犬上郡のみならず、織豊政権下において機内と東国を結ぶ要衝として、軍事的にも政治的にも、重要な拠点であり、16世紀の末には織田信長の配下の丹羽長秀、豊臣秀吉の奉行石田三成が居城とし、関ヶ原の合戦後は井伊家が一時的に入城したことでも知られる。(ウィキペディアより)
国宝彦根城の北東に位置する標高233mの「佐和山」。比高は約100m。
国道8号には「佐和山トンネル」があります。
城としての歴史は古く、(ちなみに城の歴史が「古い」とは、戦国時代以前からあったものを言うのがだいたいの感覚です。「新しい」は江戸時代以降の築城、「普通」は戦国時代・伏見桃山時代の築城です。)
鎌倉時代に近江国守護の佐々木氏が築城、戦国時代に入り六角氏が支配し、戦国後期に台頭した浅井氏、
ついで織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と時の権力者が支配しました。
織田氏支配の時は重臣・丹羽長秀が城主となり、豊臣時代も堀秀政、堀尾吉晴、石田三成、と名だたる重臣が、
徳川時代に井伊家が最後の城主となり、井伊直正の子、井伊直継が彦根城に移った際に廃城となりました。
一説には、旧石田領の領民が石田三成を慕っていたために、その思いを断ち切るために城の移転を決定したと言われます。
また、現在の佐和山に城の痕跡がほとんどないのは、石垣などを含めた建造物が全て彦根城に移されたからだとも言われています。
さてさて、いつもながら前置きが非常に長くなってしまいましたが、ようやく山を登ります。
佐和山の麓をぐるっと回っていると石垣のようなものを発見。
これが佐和山城の石垣なら歴史的大発見です。
山の斜面は竹のみが生える非常に急な斜面。
これは這ってでも登れないかもしれません。
登山道の入り口。道すがらはお墓が並んでいます。
というのは、佐和山は山全体が「龍潭寺」というお寺の所有地なのです。
山に登れるのは、お寺が好意で無料開放してくれているから。
丹波亀山城跡も宗教法人「大本」が所有していますが、無料開放されていますよね。
ほんとに急峻な山道。人一人しか通れません。
攻め込んでも兵が一列でしか通れず、容易に返り討ちにされそうです。
落ちたら死んでしまかも・・というレベル。
二ノ丸跡からの眺望。
そして頂上へ・・
頂上は50m四方ぐらいが平らになっています。
そして、眺望が抜群!これは一見の価値ありです。
西方向。琵琶湖が眼下に。
南方向。国道8号やJR東海道本線・東海道新幹線が見えます。
そして南西方向には、国宝彦根城が。
感涙の嵐。
佐和山城址の石碑。
感慨に堪えません。
ぜひ佐和山城を復元して欲しいものです。
ちなみに麓にはちょっと残念な佐和山城天守のレプリカが。
もうちょっと大きかったらな~・・(^_^;)
後ろ髪を引かれる思いで佐和山を離れ、帰途につきました。
その途上にある安土城。
当然ながら寄ってはみたものの・・
石垣跡。
安土城はすっかり観光地化していて、拝観料が必要になってました。
(以前は無料だったはずなんですが・・)
人も多く、城跡に浸れる状況でもなかったので、今回はあきらめました。
本日は辻は担当しました!
次は早朝の竹田城へ!!