2016.03.11
【京都の通り名シリーズ】も第6回。若干ネタがしんどくなってきた今日この頃。そこで本日は、京都にずっと住んでいる人でもあまり聞いたことの無い通り名をご紹介させて頂こうと思います。
「新丸太町通」「新麩屋町通」「新富小路通」「新柳馬場通」「新堺町通」「新高倉通」「新間之町通」「新東洞院通」「新車屋町通」
マニアック、と言ったら怒られるかもしれませんが・・京都生まれの京都育ちという方でもあまり馴染みのない通り名ではないでしょうか??私も不動産業界に入って初めて知った通り名でした。
「新〇〇通」というからには本来の通りの延長かな・・とも思えますが、実は全く違う場所にあります。本来の通りは御所の南側にありますが、新〇〇通はいずれも鴨川東岸、三条京阪の北側に存在します。
川端通から一筋東にある南北の通りで、北は仁王門通から南は孫橋通まで。丸太町なのに南北の通りです(!)
新丸太町通の一筋東に位置する南北の通りで、北は仁王門通から南は三条通まで。
新麩屋町通の一筋東に位置する南北の通り。北は仁王門通で新車屋町通とつながり、南は孫橋通まで。
新富小路通の一筋東に位置する南北の通り。北は仁王門通で新東洞院通とつながり、南は三条通まで。三条通を越えると花見小路通につながります。
新柳馬場通の一筋東に位置する南北の通り。北は仁王門通で新間之町通とつながり、南は三条通まで。
新堺町通の一筋東に位置する南北の通り。北は仁王門通から南は孫橋通まで。
新東洞院通の一筋東に位置する南北の通り。北は二条通から南は仁王門通まで。仁王門通で新堺町通につながります。
新車屋町通の一筋東に位置する南北の通り。北は二条通から南は仁王門通まで。仁王門通で新柳馬場通とつながります。
日蓮宗本山頂妙寺の東を通る南北の通り。北は二条通から南は仁王門通まで。仁王門通で新富小路通とつながります。
これらはいずれも、(二条通~三条通)×(東大路通~川端通)の中にあり、全長200m~400m程度の非常に短い通りとなっています。
また面白いことに、新丸太町通から順に西へ、新麩屋町通⇒新富小路通⇒新柳馬場通⇒新堺町通⇒新高倉通、と本来の並びとは逆順になっています。そして仁王門通より北側には、東から順に、新間之町通⇒新東洞院通⇒新車屋町通と本来の順番通りに並んでいます。ついでに新間之町通より一筋東には「西寺町通」があります。「東寺町通」は今は無くなってしまったそうです。
本来の通りとは全く関係ない場所に、しかも規則は有るような無いような順番で並んでいる「新〇〇通」。これにはいったいどういう事情があるのでしょうか?
通説では、江戸時代に京都の4分の1を焼き尽くした「宝永の大火」(西暦1708年)の後、御所の南側一帯に住んで居た人々が移住した際に、もともと住んでいた場所の通り名を移住先に付けたということです。その後、もともと住んでいた土地は公家屋敷が移転してきて御所の一部となりました。
つまり、現在は京都御苑の南端は丸太町通に面していますが、以前は丸太町通の少し北まで民家が広がっていて、そこに住む人たち、例えば堺町通丸太町上るの住民が、移住した先に”新”堺町通の名前を付けたということです。
今でこそ鴨川の東は市街地が広がっていますが、当時は鴨川より東は人家も乏しい荒涼とした土地で墓地や刑場があるような場所でした。こういった町ぐるみの移住があり、集落が次第に広がって今の鴨東を作っていったのでしょう。
「新烏丸通」「新椹木町通」という通りもあります。
河原町通と寺町通の間、北は荒神口通から南は二条通までの南北に約1kmの通りです。
同じく河原町通と寺町通の間で、北は丸太町通(河原町丸太町の交差点付近)から南は二条通まで続きます。
この二つの通りも、宝永の大火の前、烏丸通丸太町上る東側と椹木町通烏丸東入の住民が移住して名づけられたということです。
なお、「新堀川通」「新千本通」「新大宮通」「新二条通(太子道)」「新三条通」「新十条通」といった通りもありますが、これらの由来は上記とは全く別で、本来の通りの延長とか新道といった通常一般的な意味合いで名づけられています。
平安時代の「西京極」「東京極」、つまり京都の西の端と東の端という意味ですが、「東京極」は現在の寺町通を指していました。寺町通の一本東に明治時代に新しく作られた通りが「新京極通」です。
普段何気なく通っている路地にも、ほとんど名前が付いているのが京都です。そうやって歴史を感じながら歩いてみると普段通り慣れた通勤路も感慨深いものになるかもしれませんね。
本日は12本の通りをご紹介させて頂きました。現在36本。目標まで64本です!