2017.08.04
殿ーー!守勢の士気はなお盛んでこの城は落ちませぬ。どうか退却のご下知をーー・・・
2017年7月。織田信長の中国方面軍団、軍団長・羽柴秀吉の総大将として、
秀吉の弟にあたる羽柴小一郎秀長は但馬の国の要害、竹田城の攻略に乗り出した。
但州竹田の地は、播磨・丹波への出入口にあたる要地である。
南北には円山川に沿って但馬街道が播州姫路まで通じ、
東西には山陰道が丹波の国を経て、京の都に至る。
中国地方の雄、毛利輝元の攻略において、山陽・山陰の両道からの侵入を大戦略とした軍団長・秀吉にとって、
この竹田城攻略は必要不可欠な第一歩であった。
麓から眺める竹田城は、その山頂にそびえ立つ建造物の異様さから、まるで天空の城を思わせる。
あたかも人以外の何者かが戯れに造ったおもちゃのようである。
その悠然とした縄張りは、虎が臥せているようにも窺える。
羽柴秀長隊1万2千は、円山川を挟んで対岸の”立雲峡”に陣取った。
ここからなら竹田城を見下ろすことができるため、敵兵の僅かな変化も察知することが出来る。
遠眼鏡で見る山頂の城は将兵の士気も盛んで、今日・明日に落とせるような気配はない。
秀長は立雲峡をさらに登り、頂上付近から竹田城を観察した。
「どうやって攻めたものか・・。そちはどう思う?」
傍らに侍るのは、秀長が武将として立って以来、
10数年間を常に戦場で共に過ごした侍大将・辻である。
「力攻めに相違ありませぬ。この兵力差をもってすれば、ものの数陣で敵はあっさりと降参しましょうぞ。」
辻は、よく言えば豪胆、悪く言えば短慮なところがある武将であった。
「むぅ。力攻めでは我が方の兵の損失もいかばかりのものか・・」
思慮深い秀長は常々、様々な武将の意見を聞き、
それらを総合的に判断して最良と思える一手を打つ指揮官であった。
そしてその一手は、兄・秀吉とも良く似ており、
結果的に敵・味方共になるべく死人が出ない戦術であった。
それ故、秀吉の軍団は兵からの信頼が厚く、
敵も命が助かることを知って早々と降参してしまうため、大変に強かった。
しかし、この竹田城攻めは少々事情が違った。
明智光秀の存在である。
この年、織田信長は中国地方の攻略を羽柴秀吉に命ずると同時に、
丹波の国攻略を明智光秀に命じた。
明智の軍団は強く、丹波は既に崩壊寸前であった。
丹波の次は当然、但馬。
さらに因幡、伯耆と山陰道を攻め下られては秀吉の面目が丸潰れである。
秀吉は信長に愛されてはいたが、その苛烈な性分に対しては細心の注意を払っていた。
もし中国攻めの手柄を光秀に奪われたら、秀吉と言えどどのような咎めを喰らうものか。
あるいは死を賜るかもしれないとまで覚悟していた。
そうならない為には、この但馬の国で蓋をしてしまうことである。
味方の光秀にそれ以上、山陰道を下らせないためには、但馬を平定してしまうのが喫緊の課題であった。
秀長は秀吉の思案を十分に汲み取れる男である。
兄・秀吉のことを思うが故、竹田城攻めは拙速と言わざるを得ない結果となってしまう。
続く。