2017.09.23

京都に城は何個ある?福知山城・勝龍寺城・・・

前回に引き続き、京都にある/かつてあった城の解説を致します。

一城一城に歴史があり、日本史と絡めながら想像すると、どのお城にも魅力が溢れています。

 

その城の誕生から隆盛期、廃城までを地理的・戦略的・政治的な側面から読んでみたいと思います。

 

4.福知山城

京都府福知山市字内記5

別名:臥龍城

続日本100名城の一つ。

福知山盆地に突き出した丘陵の先端に建つ城が、龍が臥せた様にみえることから「臥龍城」とも呼ばれる。

明智光秀が丹波国を平定したのち、室町時代より当地に有った城を大規模に改修し、福智山城と改名したのが始まりと言われる。

その後、度々城主を変えるが、最終的には朽木氏による200年に及ぶ統治で幕末を迎え、廃城となった。

現在は、国道9号や山陰本線からその天守を臨むことが出来る。

 

5.勝龍寺城

京都府長岡京市勝竜寺付近

京都府の南西端に位置し、桂川と小畑川が合流する要地を抑える城であった。

山城国の南部は、宇治川と巨椋池が東西に大きく横たわっていた為、大山崎を通る西国街道が重要な侵入経路となっていた。

とはいえ、京都西山の南端である天王山が大きく淀川まで張り出した狭隘な通路であったため、その地に有った”山崎城”とこの勝龍寺城が要衝を守る役目を果たしていたという。

1457年の文献に初見されることから、山城国守護・畠山義就(はたけやまよしひろ)が築城したと考えられる。

その後、応仁の乱を経て戦国時代には細川晴元の家宰で、その後独立した三好長慶の所領となる。

織田信長が足利義昭を奉じて上洛する際に、事前に三好三人衆の一人・岩成友通が守る勝龍寺城を攻めた戦いが「勝龍寺城の戦い」である。

 

現在は、JR長岡京駅東口からガラシャ通りを南に行くと、城跡に勝龍寺城公園がある。

また、国道171号を大阪方面へ向かう際に、名神高速道路をくぐるため直角に連続で右折・左折をする交差点が”勝龍寺”である。

 

6.山崎城

京都府乙訓郡大山崎町大山崎付近

別名:天王山城、天王山宝寺城

上述、勝龍寺城と共に北摂地方から通じる西国街道を抑えた城。

京・大坂間は、この山崎の地で極小となる。つまり、西から張り出した天王山と淀川対岸の男山に挟まれ、間には桂川・宇治川・木津川とそれらが合流した淀川が流れる為、経路がほとんど取れない地なのである。

現在でも、東海道新幹線・東海道本線・阪急京都線・京阪本線と名神高速道路・国道171号・旧京阪国道がこの狭い地に集中しており、京阪間の交通の最重要地点となっている。

なお、現在の京阪国道(=国道1号)は巨椋池干拓地を南進し、八幡市内を男山よりかなり南回りの経路を取っている。

 

山崎城は、羽柴秀吉と明智光秀の”山崎の戦い”が最も有名であろう。

本能寺の変にて織田信長を討った光秀が、中国大返しで戻ってきた秀吉とこの山崎の地で激突する。

結果は秀吉軍の大勝で、光秀は落ち延びる途上、小栗栖村にて落ち武者狩りにあい非業の死を遂げる。

 

その後、秀吉は大坂城が築城されるまで山崎城を利用していたが、大坂城の完成とともに廃城となり、その後利用されることは無かった。

天王山には当時の山崎城の遺構が散見されるものの、発掘調査はそれほど進んでいないらしい。

城跡マニアとしてはぜひ行ってみたい城である。

 

7.田辺城

京都府舞鶴市南田辺15−22

別名:舞鶴城(ぶがくじょう)

鶴が舞う城。舞鶴市の地名の由来になった城である。

室町幕府の丹後守護職、一色氏がこの地で執政を行っており、その後、織田信長の命により一色氏を滅ぼした細川藤孝が田辺城を築いた。

関ケ原の合戦では、東軍に属した細川氏は西軍に田辺城を攻められ、開城。ただ細川藤孝は古今伝授を受けるほどの教養人であったため、時の後陽成天皇の要請で助命された。

東軍勝利により細川家は豊前国小倉に加増転封となった。あとには京極高知が入り、京極家が3代続いて、1668年に牧野氏が入封し、明治まで続く。

田辺が舞鶴になったのは、版籍奉還の際に紀州田辺藩との混同を避ける為、舞鶴藩と改められてからで、廃藩置県により舞鶴県、そして現在の舞鶴市となる。

 

現在、田辺城跡はJR西舞鶴駅近くにある舞鶴公園となっている。

 

8.丹波亀山城

京都府亀岡市荒塚町内丸1

京から丹波国への出入口、亀岡盆地の中心的な要地・亀山に位置する。

地図を見るとよく分かるが、老ノ坂峠から山陰道を下ると、一旦平地が広がり、またすぐに山と川で狭まる箇所がある。その狭まった箇所にある小山が亀山である。

 

戦国時代に明智光秀により丹波国攻略の足がかりとして築城され、丹波波多野氏滅亡後も丹波経営の拠点となった。

光秀が秀吉に敗れた後も豊臣家、徳川家の重要拠点として重臣が入った。

 

明治になると、版籍奉還の際に伊勢亀山との混同から、亀岡藩に改名。

城も亀岡城と呼ばれるが、明治10年に廃城。

その後は市町村に払い下げられた後、転売され新興宗教「大本」が購入した。

昭和初期には、大本による壮大な神殿が建ったが、大本の拡大に警戒を強めた日本政府によって破壊、敷地も亀岡町に譲渡させられた。

 

第二次世界大戦後、本城敷地は大本に返還され、現在も大本の聖地として位置づけられている。

 

なお、現在では国宝を擁する二条城も、明治には民間に売却されそうになったことがあったそうである。

 

 

続く・・

残りを一気にと思いましたが、5城しかご紹介出来ませんでした。

まだまだ20城以上ありますので、次回以降もお楽しみに!

 

本日は辻が担当しました。

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