2017.09.16
城(しろ)とは、敵に攻め込まれた際の防御拠点として設けられた建築物。戦闘拠点であるとともに、食糧や武器や資金の備蓄場所でもある。主要な城は指揮官の住居であり、政治や情報の拠点であった。純防衛用として山地に建築されることも多いが、街道や河川などの交通の要衝を抑え利用することも多い。城郭ともいう。戦いや戦に応じて、元からある城の中心から離して作られた城の事を出城という。
ヨーロッパ、中国などの大陸では、都市を囲む城壁と、戦闘拠点の城砦(城塞、城館)とを区別する。城という漢字自身は本来前者の城壁都市を意味する。しかし日本においては城壁都市が普及しなかったこともあり、主に後者の城砦の意味で使用される。(ウィキペディアより)
城、城、城・・・
なんと甘美で魅力的な響きであろうか。
その一文字の字面を見るだけで、過去数千年にも及ぶ人類の営みとあまたの戦争とを想像してしまう。
古くは紀元前のヨーロッパ、中国などで見られた城壁に囲まれた城壁都市から、新しくは日本の近世初期に見られる大仰な天守閣を擁した権力の象徴としての城まで、城は各時代で人間の生活の中で重要な役割を担ってきた。
日本の城でどれが一番か、と問うと、もしかすると壮絶な言い争いになるかもしれない。
順当なところでは、天守が国宝に指定されている、いわゆる国宝五城(姫路城・彦根城・犬山城・松本城・松江城)が上がるだろう。
他にも大坂城・小田原城など歴史的に重要な意味を持った城(現存天守はレプリカだが・・)や、
織田信長好きなら安土城もノミネートされるかもしれない。
私のような変わり者がいれば、佐和山城・丹波亀山城・七尾城・竹田城など、哀愁の漂う城跡を候補に挙げるだろう。
京都にももちろん城はある。
ただ、京都は歴史的に天皇と多くの公家が住み、時の権力者による政治色が強い土地であったため、戦闘用の城というよりは政治的な、あるいは権力の象徴といった意味合いの城が多い。
今日は、京都に現存または、かつて存在した城を全て紹介しよう。
(出典:城めぐりチャンネル)
京都市中京区二条通堀川西入二条城町541
別名:旧二条離宮・元離宮二条城
二の丸御殿が国宝に、その他多くの建造物と庭園が重要文化財及び特別名勝に指定されている。
また、1994年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に「古都京都の文化財」として登録されている。
おそらく、京都市で最も有名な城で、京都観光の目的地の一つにも挙げられることが多いであろう。
現存する二条城は徳川氏によるもので、家康の征夷大将軍宣下と大政奉還が行われた、江戸幕府の始まりと終わりの地である。
それ以前には、豊臣氏、織田氏、足利氏による二条城があり、いずれも現在地とは違う場所にあった。
また、別名の「旧二条離宮・元離宮二条城」とは明治時代に京都府や皇室の離宮として使用された経緯による。
平成28年度の入城者数は190万人を超え、過去30年では最高値となった。(それ以前を含めると昭和45年に約210万人)
京都市伏見区桃山町大蔵45
正式には伏見城、別名として桃山城と呼ばれたことがあり、これを合わせた「伏見桃山城」が良く使われるようになった。
なお、桃山城の由来は、伏見城跡に元禄時代ごろまでに桃の木が植えられたこととされるので、
伏見城が存在したころにはこの呼称はなかったものと考えられる。
また、戦国時代末期を信長・秀吉の時代として「安土桃山時代」とも呼ぶが、これも後世に出来た呼称ということになる。
現存する伏見城は、いわば4代目のもので、
初代は1596年完成の指月伏見城、地震による倒壊で1597年に再建された木幡山伏見城、伏見城の戦いで焼失した後に徳川家康によって再建されたもの、
1964年に遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」(現在は閉園)が建設された際に、洛中洛外図に描かれた伏見城を参考にして模擬天守が造られている。
なお、伏見城本丸跡は、明治天皇の陵墓とされ現在も立ち入り禁止となっている。
京都市伏見区淀本町158
旧京阪国道を大阪方面へ走ると淀駅を過ぎたあたりで左側に石垣とお堀が見える。
”淀”は桂川、宇治川、木津川が合流し、淀川となる地で、大阪と京都・伏見を結ぶ要所である。
「淀城」というと、豊臣秀吉の側室であり、秀頼の生母である、茶々が思い浮かぶが、
茶々が住んだ淀城は現存する場所とは異なっている。
現存する淀城跡は伏見城廃城後、江戸幕府により築かれたもので、以降江戸時代を通じて、
山城の国における唯一の大名居城とされた。
京都に城はあまり無さそうなイメージですが、なんと20以上の城があります。(ありました。)
次回、残る城を全解説致します!
画像:ウィキペディアより